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思いつくまま気の向くまま、とりとめのない話になります、今回はどんな話になるのやら・・・
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私はかなり前に
葬儀屋さんで葬儀の施行・取り仕切り・司会とほぼなんでもやっていました。
その中でよく「般若心経」なる物を何度も聞きましたし、何回か内容的にも研修とかで聞いたのですが、それでも私自信分かって無いので、今回ブログネタで掘り下げてみようかな?と思いました。
まずは
下記の全文ですが、結構な人が一度は目にした事が有るかとは思いますが、とりあえず一度目を通してみてください。
こんな感じの、昔学校で見た漢文にしか見えないのですが、お経なんですね~(#^_^#)
このままだと
分かりにくいので、ネットで探したら現代語訳ってのが有ったので下記は引用したものになります。
観音菩薩が、六波羅蜜 を実践されている時、人間の心身を構成している5つのもの(物質的な肉体、苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)に固有の実体はないと知らされて、一切の苦しみを解決された。
舎利弗よ。 物質的なものには実体がない。
では何もないかというとそうではなく、因縁が一時的にそろって物質的なものが生じているのだ。
つまり、物質は実体のないものであり、実体のないものが物質として生じているわけだ。
心身を構成する物質以外の心の4つの働き(苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)もまた同じである。舎利弗よ、一切が空であるすがたというものは、因縁がそろったり離れたりするだけで、
無から有が生じたり、有ったものがなくなったりしているわけではない。
汚れているとか清らかというのも因縁によるもので、汚れた実体や清らかな実体というものもない。
因縁がそろったり離れたりしているだけで、何かが増えたり減ったりしているのでもない。だから、すべては因縁によって生じている空なるものだから、今あると思っている物質も、因縁が離れればなくなって、別のものになってしまう。
今あると思っている苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体という心の4つの働きも、因縁が離れればなくなって、別のものになってしまう。
認識の働きも、認識の対象も、認識の主体も、実体がない。十二因縁の最初の無明にも実体がなく、無明が尽きるということも実体がない。
そこから始まって、十二因縁の最後の老死に至るまで実体がないし、老死が尽きることにも実体がない。
十二因縁のすべてに実体がないし、十二因縁が尽きることにも実体がないのである。また、苦集滅道の四聖諦にも実体はない。
このように言うと、般若の智慧というのは、「一切が空ということだ」と思うだろうが、そのように頭で理解するようなものではない。
なぜなら何かを知ったり、得たりする私にも実体はないし、得る対象にも実体がないのだ。菩薩は六波羅蜜を実践して高い悟りを開くとそのような境地に至り、心に煩悩がなくなる。
煩悩がなくなるから、恐怖がなくなる。
一切の逆立ちした考えも、妄想も離れて、究極の涅槃に入る。
過去、現在、未来の一切の仏も、そのように六波羅蜜によって仏のさとりを開かれたのである。だから知るがよい。
この彼岸に渡る智慧の、
不可思議なまことの言葉、
明らかなまことの言葉、
この上ないまことの言葉、
並ぶもののないまことの言葉を。
六波羅蜜を実践し、彼岸に至る智慧を完成すれば、自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができる。この故に智慧の完成のまことの言葉を説こう。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
この意味は、「仏道を求め、完成して、彼岸へ至り、仏のさとりを得た」ということである。
上記のサイトから引用させていただきました。
仏教でよくありがちな
悟りに関しての初心者入門書みたいなものなんでしょうが、多分私も含め現代人にとっては遥か彼方の事と感じる事なんですが、年を重ねる事でそこに向かっていけるのかどうなのか・・・